BEASTARS批評:動物社会が暴く欲望と身体の倫理
肉食と草食が同じ教室にいる世界
『BEASTARS』は、2019年に放送された全12話のTVアニメである。原作は板垣巴留の漫画『BEASTARS』。監督は松見真一、制作はオレンジ、シリーズ構成・脚本は樋口七海、キャラクターデザインは大津直、音楽は神前暁が担当した。主な声優は、レゴシ役の小林親弘、ハル役の千本木彩花、ルイ役の小野友樹である。
舞台は、肉食動物と草食動物が同じ社会で暮らす世界である。チェリートン学園に通うハイイロオオカミのレゴシは、体格も力もある肉食獣でありながら、内向的で穏やかな性格をしている。彼は演劇部に所属し、周囲との距離を測りながら静かに生活している。しかし、学園内で草食獣の生徒が食殺される事件が起きたことで、肉食と草食の緊張は一気に表面化する。
本作は、動物キャラクターが登場する学園ドラマであり、恋愛劇であり、社会寓話でもある。動物の姿をしたキャラクターたちは可愛らしいマスコットではない。肉食と草食、捕食者と被捕食者、強い身体と弱い身体、欲望と倫理。そうした差異が、学校という閉じた社会の中で常に意識されている。
『BEASTARS』が鋭いのは、差別や偏見を単なる心の問題として描かない点にある。肉食獣は本当に草食獣を食べる力を持ち、草食獣は本当に傷つけられる身体を持っている。恐怖や欲望は、比喩であると同時に身体的な現実でもある。この記事では、『BEASTARS』を、動物社会を通じて、欲望、差別、肉食と草食、身体の倫理を読む作品として考察する。
レゴシは、自分の身体を恐れる主人公である
レゴシは、ハイイロオオカミである。大きな体、鋭い牙、強い力を持つ。社会の中では肉食獣として見られ、草食獣から恐れられやすい。しかし彼自身は、その力を誇っているわけではない。むしろ、自分の身体の中にある暴力性を恐れている。
ここがレゴシの主人公としての特異性である。多くの成長物語では、主人公が自分の力を受け入れ、使いこなすことが成長として描かれる。しかしレゴシの場合、力は単純な武器ではない。自分の本能が誰かを傷つけるかもしれないという恐怖が、常に彼を縛っている。
レゴシは優しい。だが、その優しさは弱さではなく、自分の強さを知っている者の抑制である。彼は不用意に近づけば相手を怖がらせることを知っている。声を荒げれば相手が萎縮することを知っている。身体が大きいというだけで、社会の中で加害の可能性を背負わされる。
この設定は、現実社会における身体差、性差、権力差の問題とも響き合う。自分にはそのつもりがなくても、相手からは脅威として見えることがある。善意だけでは、身体が持つ社会的な意味を消せない。レゴシの苦しさは、自分が何者であるかを、他者の恐怖を通じて知ってしまう苦しさである。
ハルは、弱い身体を持つ者の自由を求めている
ハルは、小さなドワーフウサギである。草食獣であり、身体的には弱い側に置かれている。彼女は周囲から守られるべき存在、傷つきやすい存在として見られやすい。しかしハルは、その視線に収まりきらない人物である。
ハルは、草食獣の被害者性だけで語れるキャラクターではない。彼女は自分の身体が弱く、小さく、他者から軽く見られることを知っている。その上で、自分の欲望や選択を持とうとする。恋愛や性的な関係も含めて、彼女は「守られるだけの存在」ではなく、自分の人生を自分のものにしようとする。
だからハルは、レゴシにとって非常に難しい相手になる。レゴシは彼女を守りたいと思う。だが、守りたいという感情は、時に相手を弱い存在として固定してしまう。ハルは、レゴシの優しさを必要としながらも、ただ保護される対象になることを拒む。
この関係の緊張が、本作の恋愛を単純な異種間ロマンスにしない。レゴシにとってハルは、愛する相手であると同時に、自分の捕食欲を意識させる存在でもある。ハルにとってレゴシは、恐怖を感じうる肉食獣であると同時に、自分を対等に見ようとする相手でもある。二人の関係は、欲望と倫理の境界で揺れている。
ルイは、弱い身体を権力で覆い隠す
ルイは、アカシカであり、演劇部のスターである。草食獣でありながら、彼は誇り高く、強いカリスマを持つ。学園内で尊敬され、舞台の中心に立ち、将来の「ビースター」として期待される存在である。
しかし、ルイの強さは、草食獣としての弱い身体を消した上に成り立っているわけではない。むしろ彼は、自分の弱さを誰よりも強く意識している。だからこそ、完璧であろうとする。堂々と振る舞い、舞台の上で他者を圧倒し、自分が食われる側の存在であることを権威で覆い隠そうとする。
レゴシが自分の強い身体を恐れる人物なら、ルイは自分の弱い身体を許せない人物である。二人は対照的だ。肉食であることに苦しむレゴシと、草食であることに抵抗するルイ。どちらも、自分の身体が社会の中で持つ意味に縛られている。
ルイの演劇部での存在は、舞台という空間の意味ともつながる。舞台上では、身体は役によって別の意味を持つ。弱い身体でも強者を演じられる。草食獣でも支配者になれる。だが舞台を降りれば、肉食と草食の現実は戻ってくる。ルイは、その現実を最も鋭く意識している人物なのである。
肉食と草食は、差別であり本能であり制度である
『BEASTARS』の社会は、肉食と草食の共存を掲げている。表向きには秩序があり、学校もあり、友情も恋愛も成立している。しかしその社会の底には、捕食関係という根本的な非対称性が残っている。
肉食獣は、草食獣を食べたいという本能を持つ。草食獣は、肉食獣に食べられるかもしれないという恐怖を持つ。この構造は、単なる偏見ではない。身体に根ざした差異である。だからこそ、本作の社会問題は複雑になる。
もし肉食獣への恐怖が完全に誤解なら、偏見をなくせばよい。しかし実際には、食殺事件が起きる。裏市では肉が売買される。肉食獣の欲望は現実の暴力へ変わりうる。草食獣の恐怖には根拠がある。一方で、すべての肉食獣を危険視することもまた差別である。
ここに『BEASTARS』の社会寓話としての強さがある。差別、欲望、制度、本能が簡単には分けられない。社会は共存を理想として掲げるが、その理想は身体の現実によって常に揺さぶられる。肉食と草食の問題は、善悪ではなく、共に生きるためにどこまで欲望を抑え、どこまで相手の恐怖を引き受けるかという倫理の問題なのである。
オレンジのCGは、動物の身体と演劇的な心理を両立させる
『BEASTARS』のアニメ版は、制作会社オレンジによる3DCG表現が大きな特徴である。動物たちの毛並み、体格差、顔の造形、動きの違いが、CGによって立体的に表現されている。『宝石の国』で非人間的な宝石の身体を描いたオレンジは、本作では動物の身体と人間的な心理を同時に描いている。
本作において身体差は非常に重要である。レゴシの大きさ、ハルの小ささ、ルイの細さと姿勢、肉食獣と草食獣の距離感。これらは会話だけではなく、画面内のスケールによって伝わる。CGは、身体の大きさや重さの違いを可視化するのに向いている。
松見真一監督の演出は、学園ドラマでありながら、しばしば舞台劇のような緊張感を作る。演劇部という設定もあり、キャラクターたちは自分の役割を演じながら生きている。レゴシは穏やかな肉食獣を演じ、ルイは強い草食獣を演じ、ハルは弱者としての視線に抗う。
神前暁の音楽は、ジャズ的な色気や不穏さを帯びながら、青春ドラマ、サスペンス、恋愛の揺れをつないでいる。『BEASTARS』の世界は、動物寓話でありながら、非常に都市的で演劇的である。CGの身体性と演出の心理性が合わさることで、欲望が見える身体として立ち上がる。
ここからはネタバレあり――レゴシの恋は、捕食欲との区別を迫られる
ここからは、物語の核心に触れる。
レゴシがハルに惹かれることは、単純な恋愛感情として始まるわけではない。彼はハルを襲いかける。そこには、肉食獣としての捕食衝動がある。だから彼の恋は、最初から倫理的な問いを抱えている。自分はハルを愛しているのか。それとも食べたいのか。その区別はどこにあるのか。
この問いが、本作の恋愛を極めて不安定なものにしている。恋愛も捕食も、相手を強く求める感情である。近づきたい、触れたい、自分のものにしたいという衝動は、時に似た形を取る。レゴシは、その類似を恐れる。
レゴシの誠実さは、この恐怖から逃げないところにある。彼は自分の欲望を美しい恋愛感情だけに変換しない。ハルを傷つける可能性があることを知っている。だからこそ、自分を抑え、距離を取り、悩む。
しかし、完全に距離を取ることだけが倫理ではない。相手を傷つけないために離れることは重要だが、それは同時に、相手と対等な関係を結ぶ可能性を閉ざすことでもある。レゴシは、欲望を消すのではなく、欲望を抱えたままどう相手と向き合うかを学ばなければならない。そこに、彼の成長がある。
食殺事件は、学園の理想を破壊する
第1期の冒頭で起こる食殺事件は、物語全体に影を落とす。草食獣の生徒が肉食獣に食われたという事実は、チェリートン学園の共存の理想を破壊する。肉食と草食が同じ学校で生活するという建前は、事件によって一気に不安定になる。
事件が重要なのは、犯人探しのサスペンスだけではない。事件そのものが、社会の見たくない現実を露出させるからだ。普段は抑えられている肉食の欲望が、現実の死として現れる。草食獣の恐怖は、もはや抽象的な不安ではなくなる。
この事件によって、肉食獣全体への視線が変わる。肉食獣たちは、何もしていなくても疑われる。草食獣たちは、共存の言葉を信じられなくなる。ここに、集団化された偏見の構造がある。一人の犯罪が、属性全体への恐怖へ変わる。
だが本作は、肉食獣の差別だけを描くわけではない。実際に肉食衝動が存在する以上、その恐怖を単純に偏見と呼ぶこともできない。だからこそ、共存の問題は難しい。『BEASTARS』は、理想の共同体がどれほど脆いかを、食殺事件によって示している。
裏市は、抑圧された欲望が制度化された場所である
本作に登場する裏市は、肉食獣たちが肉を買う場所である。表の社会では禁じられ、隠されている欲望が、裏では商品として流通している。この場所は、『BEASTARS』の社会構造を理解するうえで非常に重要である。
社会は肉食獣に対して、草食獣を食べてはいけないと命じる。それは共存のために必要な倫理である。しかし、欲望そのものが消えるわけではない。消えない欲望は、地下へ潜る。そして地下で市場になる。裏市とは、抑圧された欲望が制度化された場所である。
ここには、経済と倫理の問題がある。禁じられたものほど、裏では価値を持つ。肉は商品になり、欲望は金で処理される。表の社会は清潔な共存を掲げるが、その裏側には、欲望を処理するための汚れた市場がある。
レゴシが裏市に触れることは、自分の中の肉食性だけでなく、社会全体の偽善に触れることでもある。個人が欲望を抑えるだけでは、問題は終わらない。社会は、その欲望をどこかで処理し、見えない場所へ押し込めている。『BEASTARS』は、身体の欲望が個人の問題であると同時に、社会制度の問題でもあることを描く。
『BEASTARS』からつながる作品たち
『オッドタクシー』は、動物の姿をした登場人物たちを通じて、都市社会、孤独、犯罪、視線の歪みを描く作品として比較できる。『BEASTARS』が動物の身体差を社会構造へ結びつけるのに対し、『オッドタクシー』は動物的な外見を通じて、都市に生きる人々の距離感や認識のズレを描く。どちらも、動物表象を単なる可愛さではなく、人間社会を映す装置として使っている。
『宝石の国』は、非人間的な身体を通じて、自己、共同体、変化、差異を問う作品として接続できる。『宝石の国』では宝石の身体が自己同一性の問題を生み、『BEASTARS』では動物の身体が欲望と差別の問題を生む。どちらも、身体のあり方が社会的な意味を決めてしまう世界を描いている。
『チェンソーマン』は、欲望、暴力、身体、他者への渇望を生々しく描く作品として比較できる。『チェンソーマン』が欲望をむき出しの飢えとして描くのに対し、『BEASTARS』は欲望を社会の中でどう抑制し、どう倫理化するかを描く。身体の衝動と人間的な関係の緊張という点で響き合う。
また、本作は学園ものの枠組みを使いながら、青春の悩みを社会構造の問題へ広げた作品でもある。恋、部活、将来、自己認識といった学園ドラマの要素が、肉食と草食という寓話的な設定によって、差別と欲望の問いへ変換されている。
欲望を消せない身体で、どう共に生きるか
『BEASTARS』は、動物たちの学園ドラマである。しかしその核心にあるのは、欲望を持つ身体でどう他者と共に生きるかという問いである。
レゴシは、自分の肉食獣としての身体を恐れる。ハルは、弱い身体を持つ者として見られることに抗う。ルイは、草食獣としての弱さを権威と誇りで覆い隠そうとする。三人はそれぞれ、身体が社会の中で持つ意味に苦しんでいる。
肉食と草食の共存は、美しい理想である。だが、理想だけでは身体の差異は消えない。欲望も恐怖もなくならない。だから本作は、差別をなくそうという単純なメッセージに留まらない。欲望があること、恐怖があること、身体差があることを認めた上で、それでも相手をただの獲物や脅威として扱わないための倫理を探している。
『BEASTARS』は、動物社会が暴く欲望と身体の倫理の物語である。肉食獣であること、草食獣であることは、ただの属性ではない。それは、愛し方、恐れ方、見られ方、生き方を左右する身体の条件である。レゴシがハルへ向かう恋は、その条件を消すのではなく、引き受けながら他者へ近づこうとする試みである。そこに、この作品の危うさと誠実さがある。