呪術廻戦批評:負の感情が呪いになる現代バトル

少年は、呪いを飲み込み死刑を延期される

『呪術廻戦』は、2020年に放送された全24話のTVアニメである。原作は芥見下々の漫画『呪術廻戦』。監督は朴性厚、制作はMAPPA、シリーズ構成・脚本は瀬古浩司、キャラクターデザインは平松禎史、音楽は堤博明、照井順政、桶狭間ありさが担当した。主な声優は、虎杖悠仁役の榎木淳弥、伏黒恵役の内田雄馬、釘崎野薔薇役の瀬戸麻沙美である。

物語の中心にいるのは、並外れた身体能力を持つ高校生・虎杖悠仁である。祖父の死をきっかけに「人を助けろ」という言葉を背負った虎杖は、特級呪物である両面宿儺の指を飲み込み、呪いの王・宿儺を身体に宿すことになる。彼は呪術高専へ入り、伏黒恵、釘崎野薔薇、五条悟らと出会い、呪いと戦う世界へ足を踏み入れる。

本作は、現代を舞台にしたダークファンタジーであり、少年漫画的なバトルアニメである。だが、そこに描かれる敵は、ただ外から襲ってくる怪物ではない。呪いは、人間の負の感情から生まれる。恐怖、憎悪、嫉妬、後悔、怒り、無意識の嫌悪。人が吐き出し、積み重ね、見ないふりをしたものが、異形として立ち上がる。

この記事では、『呪術廻戦』を、呪いを負の感情の蓄積として扱い、現代バトル漫画の死生観を描く作品として読む。虎杖は人を救いたい少年である。しかし彼が入る世界は、救える命ばかりではない。むしろ、死がいつも近くにあり、善意だけでは間に合わない世界である。

呪いは、人間社会が吐き出した負の感情である

『呪術廻戦』の呪いは、超自然的な怪物でありながら、非常に社会的な存在でもある。学校、病院、駅、都市、廃墟、人が集まる場所には呪いが生まれる。つまり、呪いは人間社会の外にいる敵ではなく、人間社会そのものから発生する。

この設定が、本作を現代的にしている。敵は魔王の軍勢ではない。異世界から来た侵略者でもない。人間が日々抱える不快感、恐怖、悪意、ストレス、死への不安が、知らないうちに積み重なり、呪いになる。呪術師はその副産物を処理する職業である。

ここには、現代社会の見えない負担が反映されている。人は不安を抱えて生きる。学校には嫉妬や孤立があり、職場には疲労や恨みがあり、都市には匿名の恐怖がある。普段は見えないそれらが、呪いという形で可視化される。

だから『呪術廻戦』の戦いは、単なる善悪の戦いではない。呪いを倒しても、人間の負の感情が消えるわけではない。人間が生き続ける限り、呪いはまた生まれる。呪術師は世界を完全に浄化する英雄ではなく、終わらない汚れを処理し続ける者たちなのである。

虎杖悠仁は、善意だけでは救えない世界へ入る

虎杖悠仁は、非常にまっすぐな主人公である。人を助けたい。正しい死を迎えさせたい。誰かが苦しんでいるなら手を伸ばしたい。彼の行動原理はわかりやすい。しかし本作は、その善意をそのまま勝利の保証にはしない。

虎杖は、祖父の死をきっかけに「正しい死」という問いを背負う。多くの人に囲まれて死ぬこと。誰かを助けること。そうした言葉は、彼にとって倫理の出発点になる。だが呪術の世界では、死はきれいに整理されない。救えない人がいる。間に合わないことがある。敵にも人間だった過去があるわけではなく、純粋な悪意として襲ってくる呪いもいる。

さらに虎杖自身の身体には宿儺がいる。人を救いたい少年の内側に、人を殺すことを楽しむ存在が宿っている。この設定によって、虎杖の善意は常に不安定になる。彼は救う側であると同時に、危険な器でもある。

虎杖の物語は、善意が挫折する物語でもある。だが、その挫折によって善意が無意味になるわけではない。むしろ、救えない現実を知った後でも、それでも誰かを助けようとすることが問われる。本作の死生観は、明るい理想を簡単には信じない。しかし、理想を捨てることも許さない。

宿儺は、身体の内側にいる絶対的な他者である

両面宿儺は、虎杖の身体に宿る呪いの王である。彼は強大で、残酷で、人間を道具のように見ている。虎杖と同じ身体を共有しながら、虎杖の倫理とはまったく相容れない。ここに、本作の身体をめぐる不気味さがある。

宿儺は外部の敵ではない。虎杖の内側にいる。身体の主導権が入れ替われば、同じ肉体がまったく別の存在として振る舞う。つまり虎杖は、自分の身体を完全には自分のものとして所有できない。これは、少年漫画の主人公として非常に不安定な条件である。

この構造は、『BLEACH』における一護の内なる虚や、『NARUTO』における九尾とも通じる。だが宿儺の場合、虎杖との一体化が友情や和解へすぐ向かうわけではない。宿儺は明確に他者であり、危険であり、交渉不能な悪意を持つ。

虎杖の身体は、善意と悪意が同居する場所になる。彼がどれだけ人を救おうとしても、自分の中の宿儺が誰かを傷つける可能性は消えない。『呪術廻戦』の身体観は、身体を単なる能力の器ではなく、自分でも制御しきれない危険な場所として描いている。

伏黒恵は、誰を救うかを選ぶ倫理を持つ

伏黒恵は、虎杖とは違う倫理を持つ人物である。虎杖ができるだけ多くの人を助けようとするのに対し、伏黒は救う相手を選ぶ。彼は冷たく見えるが、そこには彼なりの正義がある。

伏黒は、善人が報われる世界を望んでいる。だからこそ、誰でも無条件に救うのではなく、自分が救いたいと思う人間を救う。これは少年漫画の主人公的な無差別の優しさとは異なる。かなり現実的で、選別的な倫理である。

この伏黒の立場は、本作の世界観に合っている。呪術師の世界では、すべてを救うことはできない。人員も時間も力も足りない。救うことは、常に何かを選ぶことでもある。伏黒はその残酷さを最初からある程度知っている。

虎杖と伏黒の関係は、単なる熱血主人公とクールな相棒の組み合わせではない。二人は「救う」という行為の意味を違う角度から見ている。虎杖の理想と伏黒の選別。その緊張が、呪術師として生きることの難しさを浮かび上がらせる。

釘崎野薔薇は、田舎と都市の視線を蹴り返す

釘崎野薔薇は、『呪術廻戦』の中でも強い自己肯定感を持つキャラクターである。彼女は田舎から東京へ出てきた少女であり、自分の美しさ、自分の強さ、自分の生き方を他人に決めさせない。

野薔薇の魅力は、単に気が強いことではない。彼女は、他者の視線によって自分を小さくされることへの怒りを持っている。田舎の閉塞感、噂、同調圧力、女らしさへの押しつけ。そうしたものに対して、彼女は自分の価値観を守ろうとする。

彼女の戦い方も象徴的である。釘、藁人形、共鳴りといった呪術は、民俗的でありながら非常に直接的だ。相手とのつながりを利用し、距離を越えて傷を返す。野薔薇の術式は、見えない関係性を武器に変える。

虎杖、伏黒、野薔薇の三人は、それぞれ違う形で現代の若者の生きづらさを背負っている。虎杖は死と善意、伏黒は選別と責任、野薔薇は視線と自己肯定に向き合う。呪術高専は、彼らが呪いを学ぶ学校であると同時に、自分の生き方を賭ける場所でもある。

学校は、若者を死の現場へ送り出す訓練機関である

『呪術廻戦』における呪術高専は、学校である。しかし普通の学校ではない。そこは、呪術師を育成し、若者を呪いとの戦いへ送り出す訓練機関である。授業、任務、修行、実戦が地続きであり、学ぶことはすぐ死の危険と結びつく。

この構造は、少年漫画の「学校」設定をかなり暗くしている。仲間と出会い、先生に教わり、強くなる場所である一方で、高専は生徒を危険な現場へ出す組織でもある。未熟な若者が、負の感情から生まれた呪いを処理しなければならない。

五条悟は、その矛盾を知っている教師である。彼は圧倒的に強く、軽い態度を取るが、呪術界の古い構造への不満を持っている。彼が生徒を育てるのは、単に戦力を増やすためではない。腐った呪術界を変えるための未来を作るためでもある。

学校は希望の場所であると同時に、制度の場所でもある。生徒は守られる存在でありながら、戦力として使われる存在でもある。『呪術廻戦』は、少年たちが成長する場所を、最初から死と制度の中に置いている。

MAPPAのアクションは、身体の重さと速度を見せる

アニメ版『呪術廻戦』を特徴づける大きな要素が、MAPPAによるアクション表現である。朴性厚監督のもと、格闘の身体性、カメラワーク、間合い、打撃の重さ、呪術の視覚効果が高い密度で描かれる。

本作のバトルは、単に技を叫んで光を放つだけではない。走る、蹴る、殴る、投げる、避ける、距離を詰める。身体の運動が強く意識されている。虎杖の身体能力、伏黒の式神、野薔薇の釘と藁人形、五条の圧倒的な余裕。それぞれの戦い方が、人物の性格と結びついている。

音楽も、現代的なスピード感と不穏さを支える。堤博明、照井順政、桶狭間ありさによる劇伴は、呪いの気味悪さ、都市的な冷たさ、戦闘の高揚を作る。『呪術廻戦』の世界は、古い呪術を扱いながら、画面や音の感覚は非常に現代的である。

この新旧の混合が本作の魅力になっている。呪術、呪物、呪霊といった古いイメージが、現代都市、学校、スマートなアクション、ポップなキャラクター造形と組み合わされる。『呪術廻戦』は、呪いを古典的な怪異ではなく、現代の身体と速度の中に置き直した作品なのである。

ここからはネタバレあり――順平の物語は、救えなかった善意の傷である

ここからは、物語の核心に触れる。

吉野順平のエピソードは、第1期の中でも特に重要である。順平は学校で孤立し、いじめを受け、世界に対する不信を深めている。そこへ真人が接近し、彼の弱さと怒りを利用する。順平は完全な悪人ではない。傷ついた少年であり、誰かに理解されたかった人物である。

虎杖は順平に手を伸ばす。二人は映画を通じて会話し、友人になれそうな時間を持つ。だからこそ、その後の展開は痛い。虎杖の善意は間に合わない。順平は救われそうで救われない。ここで本作は、主人公の優しさが万能ではないことをはっきり示す。

真人は、人間の魂と身体を玩ぶ呪いである。彼は順平のような弱った人間に寄り添うふりをし、その負の感情を利用する。これは、呪いが人間社会の傷から生まれるという本作の構造を端的に示している。いじめ、孤立、恨み、母の死。人間の世界にある痛みが、呪いに利用される。

順平の物語は、虎杖に深い傷を残す。人を助けたいと願う少年が、救えなかった現実を知る。『呪術廻戦』の死生観は、この失敗を避けない。大切なのは、救えなかった経験の後に、虎杖がなお人を救おうとできるかである。

真人は、人間の悪意を無邪気に肯定する呪いである

真人は、第1期における最も不気味な敵の一人である。彼は人間の魂の形を変え、身体を歪める。彼の残酷さは、怒りや復讐心から来ているというより、無邪気な好奇心に近い。人間を素材のように扱い、魂の変形を実験する。

真人が恐ろしいのは、彼が人間の悪意や歪みを否定しないところである。彼は人間を憎むというより、人間の醜さや弱さを当然のものとして見ている。順平のような少年の恨みを利用する時も、彼は救済者の顔をする。だがその本質は、他者を自分の遊びに変える暴力である。

真人の術式は、身体と魂の関係を直接的に扱う。魂に触れれば身体が変わる。つまり本作では、身体は表面ではなく、魂の形の現れとして描かれる。真人はその境界を勝手に操作する。これは、相手の人格や尊厳を根本から侵害する行為である。

虎杖にとって真人は、単に倒すべき敵ではない。自分の善意を踏みにじり、人の死を笑う存在である。だから虎杖の怒りは深い。真人は、人間から生まれた呪いでありながら、人間の尊厳を最も軽く扱う存在なのである。

宿儺の笑いは、死の不条理を突きつける

虎杖の内側にいる宿儺は、虎杖の苦しみを共有しない。順平の場面でも、虎杖が助けを求める中で、宿儺は嘲笑する。この笑いは非常に残酷である。主人公の内側に、救済を拒む存在がいることがはっきり示される。

少年漫画では、主人公の内なる力がやがて味方になることも多い。しかし『呪術廻戦』第1期の宿儺は、そう簡単には協力しない。彼は虎杖の願いを聞き入れる存在ではなく、虎杖の無力さを笑う存在である。

この構造によって、虎杖の身体はさらに過酷な場所になる。彼は人を助けたい。しかし、自分の中には人を助けるどころか、死を楽しむ存在がいる。力を得たことは救いではなく、危険な契約でもある。

宿儺の笑いは、本作の死の不条理を象徴している。願っても助からないことがある。力があっても救えないことがある。内側の力が、自分の倫理に従うとは限らない。『呪術廻戦』は、主人公の力を希望だけではなく、恐怖としても描いている。

『呪術廻戦』からつながる作品たち

『BLEACH』は、死神、虚、刀、魂の境界をスタイリッシュなバトルとして描く作品として接続できる。『BLEACH』が魂の空白や死後世界の制度を描くなら、『呪術廻戦』は人間の負の感情から生まれる呪いを、現代都市のバトルとして描く。どちらも、異形との戦いを「内側の闇」と結びつけている。

『鬼滅の刃』は、鬼という異形を通じて、人間の悲しみや憎しみ、斬ることの倫理を描く作品である。『鬼滅の刃』の鬼がかつて人間だった悲しみを帯びるのに対し、『呪術廻戦』の呪いは人間の負の感情そのものとして生まれる。敵をどう見るかという点で、両作は対照的である。

『チェンソーマン』は、欲望、身体、悪魔、死を乾いたユーモアと暴力で描く現代ダークバトルとして響き合う。『呪術廻戦』が呪いを負の感情として体系化するなら、『チェンソーマン』は悪魔を恐怖の対象として描く。どちらも、少年漫画の明るさを保ちながら、死や損傷をかなり近い場所に置いている。

また、『呪術廻戦』は、現代バトル漫画が「成長すれば救える」という単純な希望だけでは進めなくなった時代の作品でもある。学校、都市、身体、呪い、死。そこにあるのは、現代の若者が負の感情の蓄積とどう向き合うかという問いである。

呪いは、消えない負の感情として残り続ける

『呪術廻戦』は、呪いと戦う少年たちのバトルアニメである。しかしその中心にあるのは、単なる異形退治ではない。人間の負の感情が蓄積し、呪いとなり、また人間を傷つけるという循環である。

虎杖悠仁は、人を助けたい少年である。だが彼は、宿儺を身体に宿し、死刑を延期された存在でもある。伏黒は救う相手を選ぶ倫理を持ち、釘崎は他者の視線に自分を奪わせない。彼らは呪術高専という学校で学ぶが、その学校は若者を死の現場へ送り出す場所でもある。

順平の物語は、虎杖の善意が間に合わない現実を示す。真人は、人間の弱さを利用し、魂と身体をもてあそぶ。宿儺は、主人公の内側から救済を拒む。『呪術廻戦』の世界では、力があればすべてを救えるわけではない。死は理不尽で、呪いは何度でも生まれる。

それでも、虎杖たちは戦う。完全な救済が保証されていないからこそ、目の前の誰かを救おうとする行為には意味が残る。『呪術廻戦』は、負の感情が呪いになる現代バトルである。人間が生きる限り呪いは消えない。だからこそ、その呪いに飲み込まれず、どう死に、どう生きるかを選ぼうとする者たちの物語なのである。