メイドインアビス批評:未知への好奇心と身体の代償
可愛い冒険は、底なしの穴へ向かって降りていく
『メイドインアビス』は、2017年に放送された全13話のTVアニメである。原作はつくしあきひとの漫画『メイドインアビス』。監督は小島正幸、制作はキネマシトラス、シリーズ構成・脚本は倉田英之、キャラクターデザインは黄瀬和哉、音楽はKevin Penkinが担当した。主な声優は、リコ役の富田美憂、レグ役の伊瀬茉莉也、ナナチ役の井澤詩織である。
物語の舞台は、巨大な縦穴「アビス」を中心に栄える街オースである。アビスの底には未知の生物、遺物、謎の環境が広がり、多くの探窟家がその深淵へ挑んできた。孤児院で育つ少女リコは、偉大な探窟家である母ライザに憧れ、自らもアビスの底を目指す。そんな彼女は、少年の姿をした謎のロボット・レグと出会い、二人で深層への旅に出る。
本作は冒険アニメであり、ダークファンタジーであり、未知への好奇心を描く作品である。キャラクターの絵柄は丸く、可愛らしい。リコとレグのやり取りにも、児童文学的な冒険譚の明るさがある。しかし、その先に待っているのは、優しい未知ではない。アビスは、下へ行くほど身体と精神に過酷な代償を要求する場所である。
『メイドインアビス』の中心にあるのは、未知を知りたいという欲望と、その欲望が身体に刻む傷である。この記事では、本作を、可愛らしい絵柄と過酷な探索を対置し、未知への好奇心と身体の代償を読む作品として考察する。
アビスは、冒険の舞台ではなく欲望の装置である
アビスは、本作における最大の存在である。巨大な穴であり、迷宮であり、世界の謎であり、探窟家たちを引き寄せる欲望の中心である。そこには貴重な遺物があり、未知の生態系があり、誰も見たことのない深層がある。アビスは、人間に「もっと知りたい」と思わせる。
しかし、アビスはただの冒険の舞台ではない。アビスは、人間の好奇心を試す装置である。下へ降りることはできる。だが、上へ戻ろうとすると「上昇負荷」が身体を襲う。深く潜れば潜るほど、戻ることは難しくなり、やがて人間性そのものが危うくなる。
この構造が、本作の冒険を独特なものにしている。通常の冒険物語では、未知の場所へ行き、困難を乗り越え、帰還することが一つの型になる。だが『メイドインアビス』では、帰還そのものが壊れている。下へ進むほど、引き返すことができなくなる。冒険は往復ではなく、降下になる。
アビスは、人間の欲望を肯定しながら罰する。知りたいなら降りればいい。だが、その代償は身体で払わなければならない。ここに、本作の恐ろしさがある。未知は美しいが、無害ではない。知ることは、常に何かを失うことと隣り合っている。
リコの好奇心は、無垢であると同時に危険である
リコは、アビスの底を目指す少女である。彼女は明るく、知識欲が強く、探窟家としての誇りを持っている。母ライザへの憧れもあり、アビスの謎を知りたいという欲望が彼女を動かしている。
リコの好奇心は、本作の推進力である。彼女がいなければ、物語はアビスへ降りていかない。彼女は危険を知りながら、それでも進もうとする。未知の生物を見れば目を輝かせ、遺物や環境に興味を持ち、恐怖より先に知的興奮を示す。
だが、この好奇心は無垢であると同時に危険である。リコは子どもであり、世界の残酷さを十分に理解しているわけではない。それでも、彼女は止まらない。母に会いたいという個人的な願いと、アビスを知りたいという探窟家の欲望が重なっているからだ。
本作は、リコの好奇心を単純に美化しない。彼女の前向きさは魅力的だが、その前向きさが時に自分やレグを危険に晒す。未知を知る欲望は、人間を成長させる一方で、取り返しのつかない場所へ連れていく。リコは、その両面を体現する主人公である。
レグは、身体の謎そのものとして旅をする
レグは、少年の姿をしたロボットのような存在である。彼は人間のように感情を持ち、リコと友情を結ぶが、その身体は人間ではない。伸びる腕、強い耐久力、謎の火葬砲。彼の身体は、アビス由来の遺物のようでもあり、物語の謎そのものでもある。
リコが好奇心の主体であるなら、レグは好奇心の対象でもある。彼は「何者なのか」がわからない。どこから来たのか、なぜ人間の姿をしているのか、アビスの底とどう関係しているのか。レグ自身も、自分の正体を知らないまま旅をする。
この配置が面白い。リコはアビスを知りたい。レグは自分を知りたい。二人の旅は、外部の未知と内部の未知を同時に進んでいく。アビスの深層へ降りることは、レグの正体へ近づくことでもある。
また、レグの身体は、リコの脆さを補う存在でもある。彼はリコを守り、危険な環境を突破する力を持つ。しかし、その力も万能ではない。レグにも恐怖があり、迷いがあり、自分の力を使うことへのためらいがある。彼は道具ではなく、未知の身体を持った少年として、リコとともに成長していく。
可愛らしい絵柄は、残酷さを隠すのではなく際立たせる
『メイドインアビス』を語るうえで避けられないのが、可愛らしい絵柄と過酷な内容の落差である。リコ、レグ、ナナチたちは丸みを帯びたデザインで描かれ、背景には幻想的な美しさがある。ぱっと見れば、児童向け冒険譚のような柔らかさもある。
しかし、その柔らかさの奥で描かれるのは、身体の損傷、喪失、恐怖、不可逆の変化である。この落差は、単なるショック演出ではない。むしろ、子どもらしい身体が過酷な世界に置かれることで、アビスの残酷さがより強く浮かび上がる。
もし本作が最初から硬派で陰鬱な絵柄だったなら、残酷さは予想の範囲に収まったかもしれない。だが『メイドインアビス』は、可愛らしい外見を保ったまま、容赦なく身体への代償を描く。視聴者は、冒険の楽しさと恐怖を同時に受け取ることになる。
この対置は、本作の中心主題にも関わっている。未知への憧れは美しい。だが、その未知は優しくない。冒険はわくわくする。だが、身体は傷つく。可愛らしい絵柄は、残酷さを和らげるためではなく、憧れと代償の距離を見せるために機能している。
Kevin Penkinの音楽は、アビスを神秘と葬送の場所にする
『メイドインアビス』の空気を決定づけている要素の一つが、Kevin Penkinの音楽である。壮大で透明感のある旋律、異国的な響き、静かな祈りのような音。音楽はアビスを、単なる危険地帯ではなく、神秘と葬送が同居する場所として立ち上げる。
アビスの風景は美しい。巨大な穴、光の差す層、見たことのない生物や植物。それらは、視聴者に「行ってみたい」と思わせる力を持つ。音楽はその感覚を強く支える。アビスは恐ろしい場所である前に、魅力的な場所でなければならない。そうでなければ、探窟家たちが命を懸ける理由が伝わらない。
一方で、音楽は喪失の気配も運ぶ。美しさの中に、帰れなさ、死、別れが混ざっている。アビスは、夢の場所であると同時に、多くの人間が消えていった場所である。音楽はその二重性を支えている。
小島正幸監督とキネマシトラスの演出は、世界の広がりと身体的な痛みを両立させる。黄瀬和哉のキャラクターデザインは、原作の丸みを活かしながら、アニメーションとして感情や恐怖を乗せる。『メイドインアビス』の映像と音楽は、冒険の高揚と死の予感を同時に鳴らしている。
ここからはネタバレあり――上昇負荷は、知ることの不可逆性である
ここからは、物語の核心に触れる。
アビスの上昇負荷は、本作のもっとも重要な設定である。深層へ降りるほど、上へ戻る時に身体へ強烈な影響が出る。吐き気や幻覚だけでなく、深く進めば人間性の喪失や死にまで至る。これは、冒険における帰還の可能性を根本から壊す設定である。
上昇負荷は、知ることの不可逆性として読める。一度深く知ってしまった者は、以前の場所へそのまま戻ることができない。未知に触れることは、単なる情報の獲得ではない。身体と精神が変わってしまう経験である。
リコとレグの旅も、下へ降りるたびに元の生活から遠ざかる。孤児院へ戻る道は、物理的にも心理的にも閉ざされていく。彼女たちは、冒険へ出た子どもたちであると同時に、帰れない世界へ踏み込んだ者たちでもある。
この不可逆性が、本作を単なるファンタジー冒険からダークファンタジーへ変えている。未知を知ることは楽しい。だが、知った後の自分は、もう知らなかった頃の自分ではない。アビスは、その変化を身体の苦痛として可視化する。
ナナチとミーティは、好奇心が他者の身体を利用する恐怖を示す
ナナチとミーティのエピソードは、第1期の中でもっとも重い部分である。二人は、アビスの過酷な実験によって、人間の姿や生活を奪われた存在である。特にミーティの変化は、アビスの呪いが単なる自然現象ではなく、人間の好奇心と結びついた時にどれほど残酷になるかを示している。
ここで重要なのは、残酷さの原因がアビスだけではないことだ。アビスは危険な場所である。しかし、それを研究し、利用し、他者の身体を犠牲にして知識を得ようとする人間の欲望が、さらに大きな悲劇を生む。未知への好奇心は、時に他者の身体を実験台に変えてしまう。
ナナチは、その結果として生き残った存在である。彼女は知識を持ち、アビスの危険を理解している。だが、その知識は幸福な成長によって得たものではない。取り返しのつかない喪失と引き換えに得た知識である。ここに、本作の知識観の暗さがある。
リコの好奇心は魅力的だが、ナナチとミーティの物語を見た後では、好奇心は無垢なものとしてだけは見られなくなる。知りたいという欲望は、人を前へ進ませる。しかし、その欲望が他者の痛みを無視した瞬間、冒険は暴力へ変わる。
ボンドルドは、探究心が倫理を失った姿である
第1期の範囲でも、ボンドルドの存在は強い影を落としている。彼はアビスを探究する白笛であり、深層の謎に近づいた人物である。しかし、その探究心は倫理から切り離されている。知るためなら、他者の身体も心も材料にしてしまう。
ボンドルドは、リコの好奇心の先にありうる最悪の姿として読める。未知を知りたい。アビスの深層へ行きたい。その欲望自体は、リコにも探窟家たちにもある。だが、ボンドルドはその欲望を他者への配慮なしに実行する。探究心が倫理を失うと、どれほど恐ろしいものになるかを示す人物である。
この対比が、本作を単純な冒険賛歌にしない。リコたちの旅は美しい。だが、アビスへ向かう欲望は、ボンドルドのような存在も生む。未知に挑むことは尊いかもしれない。しかし、何を犠牲にしてもよいわけではない。
『メイドインアビス』は、知ることの価値を認めながら、その価値が倫理を超えてしまう危険も描く。探究心は純粋であるほど危うい。なぜなら、純粋な欲望は、自分が何を傷つけているかを見えなくすることがあるからだ。
『メイドインアビス』からつながる作品たち
『けものフレンズ』は、可愛らしいキャラクターと廃墟的な世界を組み合わせ、楽園の奥にある不穏さを読ませる作品として比較できる。『けものフレンズ』が明るい旅の背後に失われた文明の影を置くのに対し、『メイドインアビス』は可愛い冒険の奥に身体的な代償と不可逆の探索を置く。表面の柔らかさと世界の不穏さの組み合わせが響き合う。
『ダンジョン飯』は、未知の地下世界を、身体、食、生態系、探索の現実から描く作品として接続できる。『ダンジョン飯』では食べることがダンジョン理解の方法になるが、『メイドインアビス』では身体が傷つくことそのものがアビス理解の条件になる。どちらも、未知の空間を抽象的な冒険ではなく、身体的な経験として描いている。
『葬送のフリーレン』は、旅と未知の場所を通じて、喪失、時間、出会いの意味を描く作品として比較できる。『フリーレン』の旅が長い時間の中で記憶を辿るものだとすれば、『メイドインアビス』の旅は下へ降りるほど戻れなくなる不可逆の旅である。旅が人を変えるという点では共通しつつ、その温度は大きく異なる。
また、本作は児童文学的な冒険の形式を借りながら、身体の損傷や倫理の崩壊を真正面から描いた点で、現代ダークファンタジーとして独自の位置にある。可愛い子どもたちが世界を知っていく物語でありながら、その世界は子どもに優しくない。
好奇心は、人を深淵へ進ませる
『メイドインアビス』は、未知への好奇心を描いた冒険アニメである。だが、その好奇心は無条件に肯定されない。アビスを知りたいという欲望は、リコを前へ進ませ、レグの正体へ近づけ、ナナチとの出会いをもたらす。一方で、その欲望は身体を傷つけ、帰還を難しくし、他者を犠牲にする危険も持っている。
リコは、アビスを知りたい。レグは、自分を知りたい。ナナチは、知識の代償をすでに背負っている。ボンドルドは、知るために倫理を捨てた。彼らの配置によって、本作は「知ること」の多面性を描いている。
アビスは美しい。だから人は惹かれる。だが、アビスは残酷でもある。だから人は傷つく。『メイドインアビス』のすごさは、この二つを分けないところにある。美しいから危険であり、危険だからこそ目を離せない。未知とは、そういうものとして描かれている。
『メイドインアビス』は、未知への好奇心と身体の代償を描いた作品である。可愛らしい絵柄は、冒険の明るさを支えながら、過酷な世界の残酷さを際立たせる。リコとレグの降下は、夢の旅であると同時に、戻れない知識への旅でもある。アビスの底へ向かうことは、世界を知ることであり、自分の身体がどこまで耐えられるかを知ることでもある。その痛みが、本作の冒険を忘れがたいものにしている。