僕のヒーローアカデミア批評:才能社会で継承されるヒーローの理想
無個性の少年が、ヒーローを目指す社会
『僕のヒーローアカデミア』は、2016年に放送されたTVアニメ第1期である。原作は堀越耕平の漫画『僕のヒーローアカデミア』。監督は長崎健司、制作はボンズ、シリーズ構成・脚本は黒田洋介、キャラクターデザインは馬越嘉彦、音楽は林ゆうきが担当した。主な声優は、緑谷出久役の山下大輝、オールマイト役の三宅健太、爆豪勝己役の岡本信彦である。
物語の舞台は、多くの人間が「個性」と呼ばれる超常能力を持つ社会である。個性は日常に浸透し、犯罪もまた個性によって変質している。その中で、ヒーローは職業として制度化され、社会から認可を受けた存在になっている。主人公の緑谷出久は、ヒーローに憧れながらも、個性を持たない「無個性」の少年として生まれた。
出久は、幼い頃からオールマイトに憧れ、ヒーロー分析ノートを書き続ける。しかし、才能が前提とされる社会で、無個性の彼がヒーローになる道は閉ざされているように見える。そんな彼がオールマイトと出会い、力を継承され、雄英高校ヒーロー科を目指すところから物語は始まる。
この記事では、『僕のヒーローアカデミア』第1期を、ヒーローが制度化された社会で、才能の有無と継承される理想を読む作品として考察する。出久の物語は、単に努力すれば夢は叶うという明るい話ではない。才能が社会的な資格として扱われる世界で、何をもってヒーローと呼ぶのかを問い直す物語である。
個性社会は、才能が可視化された社会である
『僕のヒーローアカデミア』の世界では、多くの人が個性を持っている。個性はその人の身体や能力に結びつき、進路や将来にも影響する。つまりこの社会では、才能がかなり早い段階で可視化される。
個性を持つことが当たり前の社会で、無個性である出久は、単に能力がない少年ではない。社会の標準から外れた存在である。彼はヒーローになりたいと願うが、その願いは周囲から現実味のない夢として扱われる。ここには、能力主義の冷たさがある。
個性社会は、一見すると多様性の社会に見える。誰もが違う能力を持ち、それぞれの個性を活かせるように見えるからだ。しかし実際には、個性は序列化される。強い個性、派手な個性、ヒーロー向きの個性、役に立ちにくい個性。能力の違いは、評価の違いへ変わる。
出久の痛みは、この制度の中で生まれる。彼にはヒーローへの知識も、観察力も、勇気もある。しかし、個性がないという一点で、その資質はなかなか認められない。『僕のヒーローアカデミア』は、才能のある者が活躍する物語であると同時に、才能によって最初から線を引かれる社会の物語でもある。
緑谷出久のヒーロー性は、力の前に身体が動くことにある
出久が本当にヒーローであることを示す場面は、力を得る前に訪れる。爆豪勝己がヴィランに襲われた時、出久は勝てる見込みもないまま走り出す。そこに合理的な判断はない。個性もない。勝算もない。それでも身体が動く。
この場面が重要なのは、ヒーローの条件が能力ではなく行動として示されるからだ。出久は無個性であり、戦闘能力もない。だが、助けを求める人を見た時に、考えるより先に動く。その反射こそが、オールマイトの理想と重なる。
本作において、力は後から与えられる。出久がオール・フォー・ワンではなくワン・フォー・オールを受け継ぐ資格を得るのは、彼がすでにヒーロー的な行動をしたからである。つまり、力がヒーローを作るのではない。ヒーローであろうとする行動が、力を受け取る理由になる。
ただし、この構造は単純な精神論ではない。勇気だけでは人は救えない。出久は力を持たないまま飛び出したため、実際には危険な状況を招く可能性もあった。だから本作は、心の正しさと実力の必要性を同時に描く。ヒーローには、助けたいという衝動と、それを実現できる訓練の両方が必要なのである。
オールマイトは、笑顔を制度化された理想に変えた存在である
オールマイトは、平和の象徴である。圧倒的な強さと明るい笑顔によって、人々に安心を与える存在として描かれる。彼は単に強いヒーローではない。社会全体が「オールマイトがいるから大丈夫」と感じるための象徴である。
ここで重要なのは、オールマイトが個人でありながら、すでに制度に近い存在になっていることだ。彼がいることで犯罪は抑止され、社会は安定する。人々は彼の笑顔を見て安心する。彼の身体は、公共の安全の象徴として消費されている。
しかし、オールマイトには限界がある。第1期の時点でも、彼の身体はすでに傷つき、長時間の活動ができない。笑顔の裏には消耗がある。理想のヒーローは、社会の期待を一身に背負った結果、壊れかけている。
この弱さが、継承の物語を必要にする。オールマイトの理想は、彼一人では維持できない。だから出久にワン・フォー・オールを託す。これは単なる能力継承ではない。社会を安心させる笑顔、誰かを助けるために身体が動く倫理、平和の象徴という重すぎる役割の継承なのである。
爆豪勝己は、才能社会が生んだもう一つの歪みである
爆豪勝己は、強い個性を持つ少年である。幼い頃から周囲に認められ、出久とは対照的に「すごい子」として扱われてきた。彼は自信家で、攻撃的で、勝利への執着が強い。
爆豪の問題は、才能があることそのものではない。才能によって、他者との関係を歪められてきたことにある。彼は強い個性を持つがゆえに、周囲から持ち上げられ、負けることを許されず、自分より弱い者を見下すようになる。出久への苛立ちも、無個性のはずの相手が自分に手を伸ばしてくることへの拒絶として読める。
爆豪にとって、出久は単なる幼なじみではない。自分が優位に立っているはずの世界を揺さぶる存在である。能力では下のはずの出久が、助けようとする。憧れてくる。自分にはない形でヒーローに近づく。そのことが、爆豪の自尊心を傷つける。
この対比によって、本作は「才能がない者の苦しみ」だけでなく、「才能がある者の歪み」も描く。個性社会では、無個性は排除されるが、強すぎる個性もまた人間関係を歪ませる。爆豪は、才能社会の勝者でありながら、その社会によって作られた未熟さを抱えている。
雄英高校は、ヒーローを育てる学校であり選別機関である
第1期の大きな舞台となる雄英高校は、ヒーローを目指す者たちが集まる名門校である。学校という形を取っているが、そこは普通の教育機関ではない。生徒たちは訓練を受け、個性を磨き、戦闘や救助の技術を学ぶ。将来、社会に公認されたヒーローとして働くための選別機関でもある。
ここで、本作の学園ものとしての特徴が見えてくる。学校は青春の場であると同時に、能力評価の場である。入試、体力測定、戦闘訓練、実習。生徒たちは常に見られ、比べられ、順位づけられる。ヒーローになる夢は、制度の中で試験と訓練に変換される。
出久にとって雄英は、夢へ近づく場所である。しかし同時に、自分の未熟さを突きつけられる場所でもある。ワン・フォー・オールを受け継いでも、彼はすぐに使いこなせない。力はあるが、身体が耐えられない。ここで才能の獲得はゴールではなく、むしろ新たな困難の始まりになる。
雄英高校は、理想を現実の職業へ変える場所である。ヒーローになりたいという憧れは、ここで技術、判断、身体管理、チームワーク、責任へ分解される。夢が制度に入った時、何が残り、何が削られるのか。本作はその過程を学園バトルとして描いている。
ボンズの映像は、アメコミ的ヒーロー像を少年漫画へ接続する
アニメ版『僕のヒーローアカデミア』は、ボンズ制作によって、明快で力強いヒーローアクションとして映像化されている。長崎健司監督の演出は、少年漫画らしい熱量と、アメコミ的なヒーロー像の視覚的な強さを両立させている。
馬越嘉彦のキャラクターデザインは、堀越耕平原作の多彩なキャラクターをアニメとして動かしやすく整理しながら、シルエットの強さを保っている。出久の小柄で少し頼りない体つき、爆豪の攻撃的な目つき、オールマイトの誇張された筋肉と笑顔。それぞれの身体が、その人物の立場を示している。
林ゆうきの音楽も、本作のヒーロー性を大きく支えている。出久が立ち上がる場面、オールマイトが登場する場面、訓練や戦闘の高揚。音楽は、ヒーローへの憧れを感情として押し上げる。特に第1期では、出久の小さな勇気が巨大な理想へ接続される瞬間を、音楽が強く印象づける。
本作は、アメコミ的なヒーロー文化を参照しながら、日本の少年漫画的な努力、師弟、学園、ライバル関係へ接続している。ヒーローは超人でありながら、試験を受け、授業を受け、失敗しながら育つ存在として描かれる。そこに、現代的なヒーロー育成物語としての独自性がある。
ここからはネタバレあり――USJ襲撃は、ヒーロー教育を現実の暴力に接続する
ここからは、第1期の核心に触れる。
第1期終盤のUSJ襲撃は、雄英高校の訓練空間に本物の敵が入り込む出来事である。生徒たちは救助訓練のために施設へ来ていたはずだった。しかし、死柄木弔たちヴィラン連合の襲撃によって、訓練は一気に実戦へ変わる。
この展開が重要なのは、ヒーロー教育の安全圏が破られるからである。それまでの出久たちは、入試や授業、戦闘訓練の中で能力を試されていた。だがUSJでは、相手は教師が用意した訓練相手ではない。命を奪う可能性のある敵である。
ここで、ヒーローになるという夢の危険が初めて具体化する。ヒーローは憧れの職業であり、社会的な人気を持つ存在である。しかしその仕事は、本来、人を守るために暴力の現場へ立つことを意味する。USJ襲撃は、生徒たちにその現実を突きつける。
出久はまだ未熟で、力の制御も不完全である。それでも、状況の中で判断し、仲間を守ろうとする。訓練された技術と、とっさの勇気。ヒーローに必要な二つの要素が、ここで試される。USJは、学園ものが一気に社会的な暴力へ接続される場所なのである。
死柄木弔は、ヒーロー社会が見ないものを背負う敵である
死柄木弔は、第1期の時点では不気味で未成熟なヴィランとして現れる。彼はヒーロー社会を憎み、オールマイトを殺そうとする。その姿は、単なる悪役というより、ヒーロー制度への悪意をまとった存在である。
死柄木の重要性は、ヒーロー社会の表の輝きに対する裏側として機能する点にある。ヒーローが公認され、人気職業になり、社会の安心を支えている世界では、救われなかった者、見捨てられた者、制度からこぼれた者の不満もまた蓄積する。
第1期ではその背景はまだ十分には語られない。しかし、死柄木の存在はすでに、ヒーロー社会が完全な正義ではないことを示している。ヒーローが増え、制度化されても、悪は消えない。むしろ、ヒーローという光が強いほど、その影も濃くなる。
出久と死柄木は、どちらもオールマイトを強く意識する存在である。出久はオールマイトの理想を継承しようとする。死柄木はオールマイトという象徴を壊そうとする。つまり二人は、同じ象徴に対する異なる応答として配置されている。
ワン・フォー・オールは、力ではなく責任の継承である
出久が受け継ぐワン・フォー・オールは、圧倒的な力である。しかし第1期で描かれるのは、その力が簡単な贈り物ではないということだ。出久の身体は力に耐えられず、使うたびに傷つく。継承された力は、すぐに自由に使える才能ではなく、身体を壊す重荷として現れる。
ここで本作は、継承の意味を深くしている。オールマイトから出久へ渡されたのは、強さだけではない。誰かを救うために自分を差し出す覚悟、平和の象徴を支える責任、そして次の時代へ理想をつなぐ役割である。
出久は、無個性だったからこそ、力を得た喜びと恐怖を強く知る。彼は力に飲まれるのではなく、力をどう使うかを学ばなければならない。才能を持たない少年が、突然巨大な才能を与えられた時、その才能はすぐ祝福にはならない。管理し、鍛え、責任を持って使う必要がある。
ワン・フォー・オールは、個人の成功のための力ではない。誰かを救うために受け継がれてきた力である。だから出久の成長は、強くなることだけではなく、継承された理想を自分の身体と判断に落とし込む過程なのである。
『僕のヒーローアカデミア』からつながる作品たち
『NARUTO -ナルト-』は、孤独な少年が共同体に認められようとする少年漫画アニメとして比較できる。ナルトが里からの承認を求めて火影を目指すなら、出久は無個性という出発点から、ヒーロー社会の中で役割を得ようとする。どちらも、少年の夢が社会的な承認と結びついている。
『ONE PIECE』は、仲間、夢、自由を軸にした長期少年漫画アニメとして対照的に読める。ルフィが制度の外側で自由を求める海賊であるのに対し、出久は制度化されたヒーロー社会の内側で理想を継承しようとする。自由の物語と職業的正義の物語の違いが見えてくる。
『ふたりはプリキュア』は、誰かを守るために変身し戦うヒーロー的な少女たちの物語として接続できる。日常を生きる子どもたちが、突然大きな力を持ち、誰かを守る責任を負う点で、『僕のヒーローアカデミア』の出久とも響き合う。ヒーロー性が職業か使命かという違いも比較できる。
また、『僕のヒーローアカデミア』は、アメコミ的ヒーロー文化と日本の少年漫画の努力・友情・勝利の文法を組み合わせた作品である。ヒーローを夢や憧れだけでなく、制度、職業、教育、才能の問題として描いた点に、現代的な特徴がある。
ヒーローになることは、才能を持つことだけではない
『僕のヒーローアカデミア』第1期は、無個性の少年・緑谷出久が、オールマイトから力を継承し、雄英高校でヒーローを目指し始める物語である。しかしその中心にあるのは、単なる能力獲得の快感ではない。才能が可視化され、制度化された社会で、ヒーローとは何かを問い直す物語である。
個性社会では、能力が将来を左右する。出久は無個性として夢を否定される。爆豪は強い個性ゆえに歪んだ自尊心を育てる。雄英高校は夢の場所であると同時に、能力を評価し選別する機関でもある。ヒーローは憧れであり、職業であり、社会の期待を背負う制度でもある。
その中で、出久のヒーロー性は、力を得る前に示される。助けを求める人を見た時、身体が先に動く。オールマイトが彼に見出したのは、その衝動だった。だが、衝動だけでは人は救えない。出久は力を受け継ぎ、その力に身体を壊されながら、責任ある使い方を学んでいく。
『僕のヒーローアカデミア』は、才能社会で継承されるヒーローの理想を描いた作品である。ヒーローになることは、強い個性を持つことだけではない。誰かを助けたいと願い、その願いを現実にするために身体を鍛え、判断を学び、責任を引き受けることだ。出久の物語は、夢を見るだけでは足りない社会で、それでも夢を諦めない少年の最初の一歩なのである。